本質なる音

西洋の言う、形而上なる絶対なる音というのは存在するのだろうか。

百家争鳴のごとく、人々の心に響く音は異なる。
その人自身を見ても、歴史的な過程での出会いによって、ある音に共鳴する。
しかし、時間が経つとその共鳴は薄れ、また違った音色に人は大いに感動する。
 
つまり、そこには「本質という絶対」は存在しない。

それは、オーディオのアンプやプレーヤーやスピーカーにも
絶対というものはない、ということである。
しからば、それで音づくりを止めてしまうのかと自問すれば
否その本質追及をしたいと強く思う、ある確信がある。
 
日本に入ってきた大乗仏教に、本質はないという。
しかし、根本的な教えに縁起がある。
つまりそれは、関係性である。

一橋大学の経営学者・野中郁次郎名誉教授がよく主張される「場の論理」も
この縁起という概念と深い関係があると思われる。
 
村上春樹の話題の近著である『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に
この「仏教の縁起」を意識させる文章がある。
      “ 私たちはみんないろんなものごとを抱え込んで生きている。
       …ひとつのものごとが、他のいくつかのものごとに結びついている。
       ひとつを片付けようとすると、どうしてもそこに他のものごとがくっついてくる。” (287ページ)
これを音に置きかえると、世の中は相互の関係の中で生きているので
物も西洋のように対象物としてではなく、実体なる場の中の一つに過ぎない。
つまりそれは、その場その場の雰囲気とその人が背負っている過去の歴史との
ある偶然なる同期化による、感動なる音ということになる。
そうであるならば、絶対なる音が存在するとは全く言えない。
そんな場、縁起を超えた音なるものが、いったい存在するのだろうか。

西田幾多郎は、それを仏教用語である「一即多多即一」という言葉を借り
その後、超難解な「絶対矛盾的自己同一」と言う言葉を絞り出した。
「絶対無」という西田の言葉も
プラトンの「イデア」である超越した完璧な対象物として表した
言葉に対応する言葉である。
しかし、それは形而上の実在ではなく
現象なる実在として対応させた、「心の形而上学」と言ってよい。
私の求め続けている音も、この心の形而上にある絶対無なるところまで
突き詰めたいと、強く思い願うのである。

つまり、場や過去の歴史を背負った上での感動は
我々の心に大きく関わってくる。
しかし、そんな場を踏まなくとも
録音に刻まれたその音自身が、本質なる場を創る
ということを、心より追及したいのである。
 
目指すは「普通の音」である。

エミュージュ代表 小川 尚登

 

 

 

emujuのつぶやき

OCT 2014 new!!
美とオーディオ
JUL 2014
無音という場
MAY 2014
新たなるemujuパワー
APR 2013
本質なる音
OCT 2012
蓄積された20年
SEP 2012
効率性と透明性を疑う
AUG 2012
おのずから思惟する音づくりなるもの
JUL 2012
インターフェースなる音空間
JUN 2011
絶対的相対主義…でも絶対的な深みは必要なオーディオ
JAN 2011
歴史に触る未来への音