効率性と透明性を疑う

  効率性と透明性という言葉はとてもキレイに聞こえる。清廉潔白で無垢な感覚を我々の心に投げかける。この言葉が投げかける思想性に向かって、今の会社や組織は動いているかのようだ。そうすることで、会社経営という言葉を使うとすれば、組織が活性化し、上手く事が運びそうに思える。生産性向上に向けて、経済学や経営学の歴史を引っ張ってきたキーワードたる所以だ。しかし、私はこれらの言葉に疑問を持っている。たしかに効率性を追及することで、ものづくりやサービスにおいて生産性が上がれば、利益が向上する。実際に戦後の日本の製造業は、この思想性に則って売上、利益ともに倍々ゲームで繁栄してきた。その背景には、パイの拡大があり、ゼロサムゲームではなかったのである。安い石油・原材料を手に入れ、それらを使って加工して完成品を作り、日本中に、そして世界へと売り出し買って貰えた。二度の石油ショックがあったものの、そこは効率性とものづくりにかける品質向上によって、その艱難を乗り越えたのである。しかし、その成功の裏には他社やとくに他国との比較において優越していたという点につきる。今の新興国という国々は比較にもならない存在だった。言い方は悪いが、彼らは搾取の対象でしかなく、その関係は第一次の資源があるかどうかの付き合いでしかなかったと言える。
 そして現在である。その新興国はどうなったか。今やものづくりができる立派な国に大変身しつつある。もちろん技術や資本は先進国からのものであったが、それらは蓄積され、自国でものづくりができる国に成長している。まさに我が国の戦後のサクセスストーリーのようである。そのストーリーは我が国が世界から奇跡とも云われた経済成長のスピードをも上回っている。技術・ノーハウがつぎ込まれ、日本が何十年もかけて蓄積してきたことを、何分の一にも圧縮し、それらの国々で展開している。かつその国で働く人々は、そのモノを購入できる購買力にまでなってきている。いわゆる中間層が確実に、しかも急速に育ってきているのである。それはそれで結構なことである。貧困から脱し、労働する場があり、色んなものが買えるようになる幸せな世の中を築いたのだ。映画『三丁目の夕日』に見るように、日本もかつてそうだったからだ。
 しかしだ。そこにも効率性の問題が大きくのしかかる。効率性には限界があるということだ。トヨタは「乾いた雑巾を絞る」と表現するが、いずれそれにも限界がくる。もちろん限界がくれば、新たなイノベーションを起こし、また新たなフロンティアを探して地球中を彷徨い歩けば良いということになるのかもしれない。しかしその効率の追求は、いつしか利益率という言葉と同義語になり、効率の追求は人件費のカットに結び付く。更には社員を雇うことはリスクが伴うので、非正規雇用へとシフトをする。そして日本中が事実そのように動いている。政府は色々な制度を作ったり、変更、改善がなされてきたが、基本構造は変わらない。それは結局人件費削減の部分に手をつけないとグローバルコンペティションに勝ち抜けないからである。効率性の追求の結果が、そこに向かう思想性が、結局資本主義にあるからであろう。

   もう一つ、今の中国や北朝鮮のような社会主義国家は別として、世の中は透明性を求める志向にある。背景にはインターネットの全世界的普及(社会主義国やイスラム国教国はこの流れに逆らっているように見えるが、やはりその影響は止められない。)が背景にあることは言うまでもない。 一神教特にキリスト教、その中でも「予定説」にみるプロテスタントが果たした歴史的な流れ、それに伴った解釈が民主主義、資本主義というイデオロギーという志向を促した。歴史を紐解くと、古代ギリシャのリベラルアーツがローマ帝国、その後ヴィザンティン帝国へ受け継がれ、さらに西へ移動しアラブの世界へと受け継がれていった。このアラブの存在は、今の我々の知識の中興の祖として崇められてしかるべきものである。その後、十字軍の進出によって、元のヨーロッパにギリシャのリベラルアーツが里帰りし、翻訳されて広まっていった。12世紀ゴロからその動きは盛んになったのである。当時翻訳は相当な知識人でないと出来なかったはずである。現代においてノーベル賞の受賞者が特段ユダヤ人が多いことは知られているが、ここにもユダヤ人の存在は大きかったということを付け加えておきたい。その後、この翻訳された言葉はラテン語として知識人の間のみで使われるようになった。
その最たる組織がカソリックの司祭たちである。この僧侶たちはエリート中のエリートであった。が組織というものは、長い年月が経てば腐敗するものである。その権力と権威に安住し、すべてその司祭たちの采配で世の中が回っているような錯覚を覚えたのだろう。世の中が上手く回っている時には、その腐敗は隠れている。しかし、所謂右肩下がりの時代が続き、一般の民が飢餓や伝染病で苦しんでいるのに手を打たない司祭たちに憤りの鉾は向かう。その大きな出来事が、ラテン語から民が使う元となるドイツ語やフランス語の起源となる言葉への翻訳だった。それが宗教改革へと繋がっていく。この背景にもメディア革命があったことを付け加えておきたい。つまりグーテンベルグの印刷術の普及である。今でいうインターネットと同じ働きをしたのである。 この翻訳、印刷による一般への普及によってエリートの腐敗を暴いていくことになる。いわゆるこれが、透明性の発端と言ってよい。近代を定義する一つとして、この透明性という概念が大きな役割を果たしていった。民主主義、資本主義の発展とともに歩んできた中、ここにきてある転換点に差し掛かっていると言える時代になったのではないだろうか。冒頭にも書いたが、純粋に考えると「効率性」も「透明性」も、とても良い言葉である。しかし、昨今の経済や人間の生き方を見ていると、この二つの言葉は必ずしも人を幸せに導いているようには見えないのである。  例えば、天皇が日々のお姿を全てさらけ出すのはいかがなものか。もう少し身近なところで言えば、今封切られている映画、『あなたへ』の主演である高倉健は、普段その姿をほとんど知られていない。その未知があるからこそ、より映画の中の人間を浮かび上がらせている。そして、高倉健自身もその意味を心得ていると語っている。
  効率性もある限度を超えると、人と人の繋がりを極限まで切り刻むことになる。ゆったりとした職場であって欲しいと思う。明日も会社に行きたいと思う場でなければいけないのではないだろうか。それらは効率性と矛盾し、相反することでもある。我々日本人は、キレイな言葉を受け入れてきた。そろそろ、そのキレイを真剣に疑い、思想の転換をしなければならないところにきている。 プロイセン(現在のドイツ)の19世紀中ごろの経済学者のフリードリッヒ・リストは『経済学の国民的体系』で「個人と人類の間には、特有の言語と学芸を持ち、固有の由来を持ち、特有の習俗、習慣、法律、制度を持ち、存在、独立、進歩、永遠に対する要求を持ち、区画された領土を持ち、国民が存在している。」と述べていることも深く読めば同様の示唆を我々に示してくれている。 また、佐伯啓思は近著の『経済学の犯罪』で「『効率性』や『競争』や『成長』などはもはや事態を救済する価値とはならない。『効率性』と『成長』の追及は今日のような『過剰性の経済』においては適切な価値ではなくなる。求められているのは『効率性』と『成長』に代わる新たな価値にほかならないだろう」と述べている。 文明という浄化したキレイな制度や仕組み、普遍と言っても良いものから、地域に根差したある意味濁とした文化に力点、軸を戻したいと願う。
 日本の13世紀に遡っても、まさに親鸞の言葉である、「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」の、悪人を善人にすべく今日の方向性を思うこの頃である。
 こんな長々とした前置きをしたが、音にもこれらの思想が見事に表れているように感じる。まさしくキレイな音を我々は知らず知らず志向してしまっている。 CDの帯域が20Hz〜20KHzという耳の帯域のみを再生するという思考が効率性と一致しているのかもしれない。 我々はデカルトの「我思うゆえに我あり」という脳と体の分離状態でオーディオというものに取り組んでいるのではない。心身一如なのである。 そこには可聴帯域外の音を身体で聴いているのである。言葉で表すと「心地よさ」のところかもしれない。心で聴き、腹に落ちる世界である。 そのためには前述したが、新たな価値というコンセプトを文字化しないといけないのだろう。 そんな簡単には出てこない。 一つ提示するとすれば、日本語ではなくて恐縮ですが、simpleだろうか。そぎ落とした簡素と言えるものが、一番の贅沢なのかもしれない。これが利休の床の間の一輪差しの境地だろうか。 これからの贅沢は、物量を投入しての欲求を満たすのではなく、シンプル化して残った先に光る何かを探すことと言い換えることができるのではないだろうか。
 エミュージュのコンセプトそのものである。

   見事な懐石料理はとてもシンプルである。味も淡白で、化学調味料に慣れている我々には少々ものたらなく感じる。しかし、そのシンプルさの中にとても贅沢な自然にある調味料が染み出し、体中に染み込んでいく。分かっていただきにくい料理であるが、茶の道に心身とも解脱する感覚の根っこにまで到達すると、その旨みが舌という感覚だけでなく身体で美味しさがわかるのではないだろうか。この、料理の贅沢と同じ音感覚なのかもしれない。 そぎ落とし簡素化したさきの「豊かな音」を味わっていただきたいと存じます。
 

エミュージュ代表 小川 尚登

 

 

 

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