絶対的相対主義・・・でも絶対的な深みは必要なオーディオ

自然と人間は相対するものではない。
人間は自然に大きく影響を受けてはいるが、対峙するのではなく融合していく、
というよりされていくものである。
「芸術は沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか。 詩も音楽も沈黙に抗して発言する時に生まれた」と
武満徹は『音、沈黙と測りあえるほどに』で言っているが、これが真とともにパラドックス的である。
というのは、発言すればするほど、その間の空間の沈黙を欲するのだ。
宇宙の果てであろうか深海の暗闇に沈んでいくその深さのごとく、表出する音の裏側に聴こえる深い沈黙を欲しているのである。

これは何も音芸術の世界だけのことではない。ビジネスの世界でもそうだし政治でもそうだ。
大統領・首相や社長が発する言葉が「重い」かどうかということも同様に解釈できる。
言葉の背景や行間が深く、暗闇のごとく感じるかどうかにある。
その時、時代などのタイミングということも非常に大きく影響するだろう。
タイムリーかどうかということでもある。
また、その書においてジャズを例にとり「ジャズ音楽は結論を準備しない。 そんな不潔な仕方で人々とコンタクトするようなことはない。正確な現代のなかで、苦しげだが夢見ている。」とある。
これも深遠(崇高というほうが良いかもしれない。)な空間性がそこに感じられるかどうかということだ。
一流であればあるほど、名声ということではなく、他者に感動を与えられるプレーヤー、
シンガーがそうなのであろう。
つまり音そのものより音と音のあいだが大きく深く、暗黒なんだと思う。
一般にオーディオの世界ではS/N比という科学的手法で語られるが、全くそうではない。

オーディオの音に絶対的に評価され音があるかもしれない(途方もなく難しいこと)が、
人間は一人一人個性があり、その人の人生があり歴史観を持って生きてきている以上違った受け取り方がされているのは当然である。
その人、個人を見てもあるオーディオシステムを聴けば素晴らしいと思い、
自分のシステムが最高と思っていたとしても、すぐに心が揺らぐ。
揺らぐからまた買い換えて、メーカーは潤うし新たな開発が出来、発展するのだと思う。
つまり絶対というものはなく、絶対的相対性の中での評価基準でしかないということなのだろう。
もちろんレベルはある一定以上のものが必要になってくる。
ただその「一定以上のレベル」という言葉もあやしいのだが、ある認識レベルがあるとすると、
それを10段階で表したとして、それが非常に定性的であるために伝えづらいものとなる。
ある深みをもった方(レベル7とする)がレベル5のシステムを聴くとそのシステムの粗さが理解できるが、
そのことを指摘してもレベル5の人にとっては不愉快なのである。認識を自身が気付かない限り難しい。
ある測定機があり、レベル5とか7とかが定量的に判定できればいいのだが・・・。
特にレベル5の人が長いオーディオ遍歴を積んでいればいるほど、その認識を気づくことを避ける傾向にある。
人間誰しも、自分の否(否と言ってよいかも難しい)を認めたくない。
ましてや一廉の趣味人としてやってきた歴史が邪魔をするし、そもそも趣味をそのように絶対的相対性で評価するものでもない。
しかし、その壁を超えると新たなものが見えて、とても新鮮で次の展開が愉しみになる。
トートロジーにしかならないのかもしれない。

安藤昌益「互性活真」のことを、

  狩野亨吉は「互性活真を平易に言えば、一切の物事は相対にして成立することである」
ということは、世の中にあるものは常に相対するものが存在することになる。もしない
としても誰かが模倣して、その元とを比較する、相対化するように世の中が流れているとも言えよう。
「自由」や「倫理」という曖昧で抽象概念でしかないようなものも、相対でしか語れない。

と言っている。

がしかし、心の形而上学とでも言おうか、オーディオの深遠さには絶対的な価値観が必要な気がする。
そのための素直な心が必要なのだろうと思う。


エミュージュ代表 小川 尚登

 

 

 

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